このホームページで「舞岡公園の自然に惚れて写真を撮っている」と言っているものの、よく考えると、うかつな表現かなとも思える。舞岡公園は里山と水田を中心とする公園である。里山は縄文時代、水田は弥生時代からあったといわれるが、どちらも人が手入れをしてきたものである。ということは本当の自然ではないといえる。自然とは何ぞや? 自然破壊とは何ぞや?自然の意味が分からない。自然とは人間に対立して存在するものを言っている? でも人間は自然の一部でないのか?どこまでが自然で、どこから不(非)自然になるのか?昔、業界紙への投稿随筆で「人間による自然破壊は火を使い始めたときから始まった」などと言ったことがある。人類は約600万年前にチンパンジーから別れ350万年位前から現在のような直立人間になったといわれ、150万年位前から火を使った証拠が見つかっているらしい。人間の行動による地球温暖化、人類は月にも着陸したし、人工衛星を太陽系の外の宇宙にも送り込んだ。人間が手をつけないのを自然と呼ぶなら、もはや我々の至近の宇宙には自然は存在しない。自然を私流に分類するなら、人間が自然の生命の循環系を殆ど傷つけていない純自然、人間がこれは危ないと思いつつ手を打ちつつある可能な自然、人間自身が引き起こした環境破壊を人間自身が防止できなくなり人間自身と他の生物の神が元々創造した状態を維持できなくなり現在の全ての生物が絶滅するか違った形の突然変異のDNAを持つに至る非自然に分類する。大都市は非自然にある。地球全体も可能な自然を達成しようとすることに失敗したら非自然となる。舞岡公園は、現在は可能な自然であり、更に純自然に変化することを信じて「私は舞岡公園を自然のシンボル」として撮影し続けたいと思っている。それでも人類が現在やっていること全てが元々神様によって仕組まれた自然の行動なのか解らない。

2008年4月


 
Copyright©2007 Takeshi Nakajima