この夏は、生と死について何かと考えること多い。連日の猛暑の影響?殺人の記事が多いから? そうではなく舞岡公園の惨状である。今年の舞岡公園の草花の生命力が、あれもこれも情けなく見える、いや実際にそうなのである。公園で知人と会うたびに、この話を押し付けがましく持ち出すと「そういえばそうだ」という。先ずアジサイが小ぶりで色も形もだらしなく統一性がなく終わった。道端に当たり前のように咲くアカツメクサ、ハルジオン、アザミなどなど、みんなヘナヘナであった。期待のヤマユリが、大型の花だけに今までにない情けなさが目だった。古代ハス(大賀ハス)、夏の主役のヒマワリ、コスモスは壊滅状態だった。公園の一端を削って数ヶ月前完成した高速道路の地下水への影響とも言われるが、大工事は5年以上前からで、何で今?と疑う。地球温暖化の影響なのだろか? 草花個々の写真でなくて、広い風景写真でも個々の草花の姿は集積して小生の写真撮影に影響している。ああ、悲しいかな、今後が思いやられる。 というわけで、自然の草花の情けない状態を見るにつけ、生命のナサケナサを感じている次第である。ビールス、細菌、アメーバ、動植物は各々の神から与えられた生き方で生きて、しぼんで、死んで行く。その中で人間が一番複雑な(と人間はそう思っている?)ことをやって死んで行く。なんだか良く分からないが神様によって造られた人間が考えることができる範囲内では、死はマイナスのメージを通常持っている。生はこの世(ここまでしか人間には分からないようになっている)、死後はあの世(人間には見ることはできず、想像しかできないから何だか怖いと思う)、でも神様からみたら、どちらもどうということもない変化の流れの中の一つの状態である。そこで神様が人間の考える力を少し増やすことを手助けした節がある。ここで、このことを深く深く考えた人が宗教なるものを発明した(又は発見した)。しかしこれまた神様が人間に与えた、考える力の範囲内の出来事であるが。ところで人間以外の生き物には宗教みたいなものは一欠けらもないのだろうか?


2008年8月


 
Copyright©2007 Takeshi Nakajima