前回「生きることと死ぬこと」では、何か中途半端な文章を書いたなと思う。内容が内容だけに仕方ないと開き直り、引き続き中途半端な文章を書く。 舞岡公園で自然の一端を毎週眺めていると、またまた考える。何故生きているの?動物も植物もアメーバもビールスも癌細胞も細菌も、そして人間(見方によるが人間は動物の一種である)も。先ず、神は宇宙を、そしてその中に人間を含めて色々なものを造った。何も無くっても良かったのではないか(したがって、ここで私がこういう変な文章を書いていることもなかったのではないか)。やはり何もないのは面白くないから造った?でも、この辺のことは造られた人間の考える力の範囲を超えているからここまで(と自分に言い聞かせる)。兎に角、自分が存在する。デカルト哲学の「われ思うゆえに我あり」など、これも難しいからそっとしておく。では私はどうすれば良いのか。神が我々の考えの及ばない理由で我々を造った、そして私はその一人である。折角造られたからには壊すこともなかろう。キリスト教に深い関心のあった芥川龍之介は神について「あらゆる神の属性(性質や特徴)のうち最も神のために同情するのは神は自殺ができないことである」と言っている。でも、その彼が自殺した。どうも複雑である。自己破壊(体と心に分けるべき?)しない神は自己破壊しない人間を造った筈だが、実際は起こる。(私も一時期ある理由で自己破壊を考えたことがある、程度の差はあれ結構多くの人がそうではないの?)。恐らく地球上で自己破壊を考える(または実施する)のは人間だけであるように思われる。恐らく自己破壊を考えるまでは神が与えた力かもしれないが実行するのは神の予定にはない。神様ができないのに人間がやるなどということは絶対にお許しにならない(と私は推測する)。やはり自然(神)が許す限り生きようと考える。前回も述べたように生から死へ移ることは、人間がいろいろ想像はするが本当のことは分からない次のステップに移ることだ。この際自己破壊した人には特別に違ったことが起こるのかもしれない。自己破壊の話題は幸福論に関係してくる。これも得体の知れない話題である。


2008年9月


 
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