前二回は死のことを書いたが、普通の人(?)は「死は不幸だ」という。それでは反対の幸福とは何か?幸福論は私がとやかく言えるほど生やさしいものではない。アリストテレスあたりから「幸福論」なる形が生まれたようだが、「幸不幸」は何万年前から人類は頭の中では考えていた(または感じていた)のではないの?唯、文字がなかったから記録にない。「幸不幸」は何かと比較した上で考える(又は感じる)相対的なものだろう。そして、もう一つの要素は「時間」ではないかと疑う。時間の流れを無限大に切り刻んだある一瞬の心理的状態ではないのか?

幸福とは、自分は自分が望んでいる(又は求めている)程度かそれ以上の状態にあると感じて、安心している心の状態であるといわれる。人によって内容や程度は全く違う(「内容」「程度」という言葉を使うこと自体間違っているかも)。人の欲はある段階を達成すれば更に高い段階を基準とするために「絶対的幸福」というものはないという。

100ケ国位の国民の「幸福度」を毎年発表している機関がある。総じて北欧勢が上位らしい。富や医療福祉、基礎教育が強く影響し、一方“自分が感じる幸福度”は40カ国で上昇し、下降したのはわずか12カ国にとどまったという。選択の自由と社会の寛容度が大きく作用し、富そのものではなく、ある程度の富を得て生き方を自由に選べるようになったことが影響しているという。博愛心と感謝の気持ちも影響し、宗教や共同体の連帯意識の役割は大きいが、肯定的な信念であればどんなものでも効果的だという。

さて私は、歌にあるような「ああ、俺は幸せだなあ」なんて一億分の一秒も思ったことがない。ただ、自分が好きなことに没頭してやっているときの状態が「幸せ」だなと推定する。写真を撮影し画像処理をし、完成した瞬間まで「幸せ」、その次の瞬間、その画像に不満を持ち始めて不幸になっている。

2008年10月


 
Copyright©2007 Takeshi Nakajima