舞岡公園で動植物を撮影していると、その姿や表情について時々考える。表情の代表が顔つきである。舞岡公園の写真では人物は皆無に近いが、町の集まりなどでは結構、人物写真を撮る。動物もたまには撮影する。顔つきといっても、あれもこれやも論じたら膨大な論文になるだろう。顔つき学なる学問があるのだろうか。ネットページに「顔つきは認識の表現だ」とあったが、自分流には、(1)内面の発露と(2)外の現象に対する反応(3)その組合せ、に分類できるのではと思う。小生の写真には少ないが、植物写真の代表格として花がある。同じ木でも花は全部違った表情をし、命は短いが時々刻々と変化している。ハッと語りかけられたような気がして立ち止まり花と対話しながら眺め回し「これいいでしょう」とお互いに同意したところでシャッターを切る。(3)が起こっているように思われる(小生が気が狂っている?)。次は通常の動物であるが、生きる経過は幼児、少年、青年、成人、熟年、老年、死と多様に分けられる。あるネットページの感情の列記によれば、安心、不安、欲望、意欲、期待、感謝、恐怖、優越感、劣等感、驚き、興奮、勇気、冷静、焦燥、快、恨み、苦しみ、不思議、後悔、怒り、幸福、不満、諦め、リラックスと緊張、嫌悪、憎悪、名誉、責任、恥、愛しさ、尊敬、軽蔑、空虚、近親感、嫉妬、憧れ。。。。(1)か(2)か(3)の多様な表現となる。これらと上述の生きる段階との組合せで、無限の様態の顔つきが生まれる。一部は人間以外の動物にも通じることだと思う。最後に小生が最近思っているのは、テレビで自然動物の生の映像をよく観るが、人間も含めて、ライオン、トラ、…… なども幼児期の顔つき(特に目つき)はどうして可愛いいのか?ということである。成長するにつれてそうでなくなるのはどうしてなのか?生きる荒波によって変化した精神状態が脳に伝わり脳の命令で顔つきや目つきを生物学的に変えてしまうのか?いずれにしても人間がやっているのではなかろう。神様は子孫が絶えないように、特に幼児は、だいじにだいにじにするように可愛いくてしょうがないように造ったのだろう。だけれど、「可愛い」ってどういうことか、これ又不可解なのである。

2009年3月


 
Copyright©2007 Takeshi Nakajima