ケイタイの使い方で電話に加えてEメールがのしてきてからは、世の中更に、静かで不気味となった。我が家は、娘二人である。さて、お盆になれば孫たちが来る。その事前の通知は、実に静かに、ソッケなく小生に伝わる。家内が突然にケイタイでしゃべりながらではなく、口をキュット結んでケイタイのモニター面をジット見ながら「あさってきます」とただそれだけだ。昔だったら違う(昔といっても何時頃までというべきか?)。家内が居間で電話をする、又は相手からかかってくる。「どう、元気?」「…チャンも、元気?幼稚園へチャント行っている?」、場合によっては孫が電話口に出てきて「オバーチャン…」とかのやりとりが音の会話として行われ、小生が近くにいれば聞こえてくるのである。家内と娘たちとの連絡のやり取りは殆どケイタイのメールで行われている。男性である小生の娘たちとの情報のやり取りは、女性である家内と比べれば皆無に近い。日常の情報交換は実に静かに事務的に(?感情の起伏が伝わっていないと小生は考える)行われている。ケイタイを学生たちに、どう持たせたら良いのか喧々諤々の議論があちこちでやられているが、小生が触れることもなかろう。だけれども、ケイタイは成人やら親たちもどう扱うべきかを議論するようなことにもなるのかな? そういう世界はもう来ているし、もう世の中おしまい? 人類の文明、科学の発展は、よい方向なのか、そうでないのかよくわからないが、神様がそのように仕組んでいるのだから仕方ない。こういうことをここでツベコベ言っている小生のほうがズレてるのかな? アメリカでももめている。アメリカの有名月刊誌の投稿欄にもありました。「編集者殿、Eメールは私の生涯で最悪の情報伝達手段となっています。私の子供たちは電話で(声を出して)話さないのです。ジョークや日常のあれやこれやについてもメールでやりとりし、本当に声を出して話し合うことがなくなっているのです。彼らに話して会話を交わす素晴らしさを、どうやって教えたらよいのか迷っています」「投稿者殿、同情します。一昔前、電話が普及し始めたとき人々は手紙を書くという素晴らしい芸術がなくなってしまうと騒ぎました。今度は声を出して話すことさえ失い始めています。だけれども、時間の流れと技術の発展を止めることはできないのです。一方、多くの人が、メールのお陰で何時でも連絡し合えるとも言っています。もし会話の素晴らしさを教えたいのなら、先ず、電話機を使って子どもたちに話しかけてみたらどうでしょう。数日おきに電話して、ちょっとしたことについて、そして”I love you”などとも言ってみたらどうでしょうかね」

2009年8月




 
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