50年間のサラリーマン生活を終えたが町の色々な役が増え、12月は、加えて、後から後から忘年会(含むカラオケ)が続き超多忙だ。だから12月20日の今日「思うこと」を書いている。最大趣味の写真の月々やらなければならないことにも手が回らず、一体自分は何をやっているのかとヤキモキしつつも、一方飲むのが好きなほうだから、胃壁の具合が怪しくなり太田胃散にお世話になり、午前様で何となく風邪を引きそうになり即卵酒の類似を飲んでやり過ごし今のところ医者の世話にはなっていない。でもこんなことを続けたらまもなく死ぬだろう。一方死ぬ前にやっておきたいと思うことは山積だ。舞岡公園の写真集(今度は、被写体の種類別)、個展(2回で途切れている、場所の問題)、二昔前のアメリカ独身生活、一昔前の家族ずれアメリカ生活の時の2000枚くらいの写真から写真集を作る、…… ところがもっと小さい目の前のやらなければいけないことが後か後から続いて出てくる。何を基準にして未完と完成とするのか?日々の、月々の、年々の未完成を引きずって人間は生きている。そうこうしているうちに死んでしまう。人生全て未完成で終わる。おれはやろうと思ったことを全てやったと思って死んだ人はいるのだろうか? 小生みたいな平凡な人間でも結構問題とするところだが、著名な文学者、学者、芸術家などは年齢に関係なく心身共に打ち込んだ生き方をしているから、さぞかし死に際に未完成の作品を抱えて死んでいった人は多かろう。シューベルトの未完成交響曲、スペインの未完成大教会堂、尾崎紅葉の「金色夜叉(こんじきやしゃ)」や中里介山の「大菩薩峠(だいぼさつとうげ)」も未完といわれる。よく考えると国家の政府は未完の代表的なものでないか。「こうしたらもっと良くなる」と国民に訴えて選挙で選ばれ、約束通りに全てを実行できた政府なんて世界中で皆無であろう。人類の歴史は未完の連続と集積であり、文明の原動力は未完への不満である。 随分と大げさな理屈に到達したところで、この「思うこと」の記事を終える。この記事も典型的な未完成だ。

2009年12月




 
Copyright©2007 Takeshi Nakajima