今、Vancouverオリンピックの真っ最中だ。オリンピックは人類の競争行為の最たるものである。但し平和の祭典という原理があり「オリンピックは、参加することに意義がある」といわれる。確かにメダルはどう見ても期待できない前提で参加している国も多々あり感心する。しかしある水準(?)以上の国となると、達成感(達成とは他人に勝つことと自己に勝つこと)や宣伝(国力の他国民や自己国民に対する顕示―戦争によらないで)の目的で、間違いなくメダルの数を目指す。神は存在する全ての生き物が競争するように造った。その中で人間は動物という範疇の中で競争(そして、戦う)という本能をもっている。われわれが生きている活動を見ると競争、比較と無関係なものは皆無に近いとも思われる。戦争は最たるもの。子供が生まれるときは、より可愛く、健康で、聡明でありますようにと祈る。そして幼稚園から大学まで競争/比較漬け、社会に出たら競争に埋没し必死に生きる。恋愛も比較、競争である(異性を比較し吟味した結果であろう)。国の政治、国際政治も典型的な比較と競争の舞台である。国際連合がある。人類は他国、他人種、他文化などを比較し争うことをやめて将来本当に一つになれるのだろうか?100年後に一つにまとまったとしよう。そうしたら又何らかの理由で内部分裂が起こり、比較し、競争し、そして戦争までしてしまうのではないか?人間は動物だ。闘争の本能を持っている。人間の頭の中から「ほかのものより………、他人より………」という比較心とその結果として闘争心を取り除くことができるのだろうか。取り除いたらどうなる?競争心は文明の発展(よい方向か悪い方向かわからないが)の原動力であると同時に戦争による破壊のきっかけにもなる。人間が裸で他の動物と戦ったときから現在の文明に至ったのは競争の結果である。ところで、芸術は競争から生まれているのか? 権威からの強制、商業的競争目的から生まれるものもあったし今後もある。インターネットで「セザンヌとマネ −その芸術的競争をめぐる一考察」というような記事があった。純粋芸術は神から与えられた個性の自己表現であろう。小生の写真も手前味噌ながら芸術と呼ぶ。小生がカメラのシャッターを押す瞬間は他人との競争心はない、自己との競争心は時々ある。結果としての写真も時々売れるが、この段階では明らかに商業的な競争関係におかれていると言える。

2010年2月




 
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