以前ボケについて広い意味で書いた。写真撮影で何時でもボケが頭に浮ぶ。日本人は世界で一番写真のボケに興味を持ち多用しているといわれる。写真におけるボケとは何だ? 引き続き屁理屈を並べる。前回言ったように、先ず新聞一面を目の前に広げて、興味ある部分をじっと眺めると一部だけが鮮明に映り他の範囲はボケることは誰でも知ることができる。先ず、人間の目と脳(恐らく他の動物も)はある対象を見た瞬間の非常にせまい範囲だけある一瞬間(1/100,1/1000…秒間)鮮明に画像を認識する。そしてその残像が脳に残っている間に隣の範囲に同じようなことを繰り返して行って、ある範囲のまとまった画像(風景、ポートレイト、花、… …)等の画像であると認識する。そして自分なりに感動したものは記録(写真、絵画などの画像、ここでは、俳句、詩などの文学的表現は論じない)に残したい衝動に駆られる。感動したのは何についてなのか? 一輪の菊の花が部屋にかざってあり、障子を通す淡い光を受けて美しいと感動する。そこで、菊の花だけが鮮明に写りその他はボケた写真を撮る。極端には部屋の全ての背景を現実の形を殆どとどめないほどボカス。するとこの菊の花はそれだけで美しいと感じられるかもしれないが、人間の目と脳が瞬間的になめまわすように見て組み立て、その部屋独特の雰囲気や空気感の中において美しいと感じられていたものから離れた、抽象的な、狭い意味での美しさになる。その同じ菊の一輪を今度は、庭に突き出ているベランダなどに置いて又美しいと感動するが、それは違った美しさであるはずだ。ここでも庭の背景を原型をとどめないほどにボカして撮影し、狭い意味での、抽象化された、そのときの世界から離れた美しさに変る。抽象的な画像を除いて言えば、ある対象物は、ある時、ある場所にあって感動したものである。上述、人間の目と脳はある一瞬間は一点しか認識してないのだから、他はボカシしてもいいんじゃないの? でも次のもう少し長い瞬間では全体を鮮明に把握した上で感動しているのだからボカシはおかしい?「差しさわりのない程度に原型を留めるボケ」ならOKか? 公表されている写真を見ると、特にボケを主題にした写真集や記事以外ではボケを使った作品は少ないと思える。小生は現在風景撮影なのでパンフォーカス(ボケなし)が中心だ。むかしポートレートではボケを意識した。しかし、ある環境で美しいと感じた対象物をボケに頼らないで浮き上がらせて表現する努力は重要ではないのかと思っている。

2010年4月




 
Copyright©2007 Takeshi Nakajima