何を今更! 既にこのホームページでいくらでも掲載している。ある意味、ずつなし(これ方言?「ものぐさ」)の小生が徒歩数分で行ける約10万坪の地味な「舞岡公園」の中に意地でも美を発見することを手ごろなライフワークとしている(又はしていこうとしている)ことは事実だ。振り返ってみるに、40年近く前に「写真をやろう」などと考えた動機は結構いいかげんで、「アメリカにいた時隣に住んでいた写真画像処理のプロと頻繁に付き合った」「コダックフィルムの最高傑作であるKodachromeフィルムが表現したスライド風景の素晴らしさに驚嘆した」「人生は、人間は所詮ヒトリボッチ、一人で長くできる趣味はなんだろう」「絵がもともと好きだった」「理科系ではないがメカ大好きで、カメラという装置にも大変興味があった」。。。が重なった。自分なりに、何か芸術的に(又は創造的に)(?)に表現しようと努力し始めたのは20年位前からだろう。さて、考え方がふけてきたようだが、体が自分の言いなりに動く人生の残り時間はそう長くないだろう、そして例えば車椅子の世話になるようになったら写真は撮れるか?などと考えてしまう。そうだ、花なら続けられるかもしれない。花は誰にとっても美しい、又はキレイだ。にくたらしい、みにくい、いやらしいと思う人間は皆無に近いのではなかろうか。生物学的には花は種子植物の生殖器官であり、花びらは花粉を媒介する昆虫など(時には人間)を誘うためのものと見られる。人間も昆虫などの他の動物も花はキレイだとしてひきつけられるのは神が造った偶然の一致か? この絶対的にキレイな花は誰が撮影しても一応キレイに写るだろう。そこから抜け出して、花が訴えようとしてる美しさを自己流に強調する、或いは、こうあって欲しいという自分の気持ちを入れ込んだ美にする、など、(これを創造的というのだろうが)を目指し更に勉強したいと思う。早速花の写真家のノウハウ的な本を買った。でも、ボカシとかが話題の中心でどうってこともない。故人で著名な写真家で晩年に花の写真に力を入れた秋山庄太郎の写真芸術館に行こうとしたら改装のため10月までお預けである。兎に角、人の写真を真似るのでなく、自分流のキレイナ花の写真を創造したいと思っている次第。ここで大見得切ったのが実現するかどうかは何ともいえないが。

2010年6月




 
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