ある花の写真展を見に行った。30枚位の展示で、説明に4枚はデジタルカメラ、残りはフィルムカメラ写真とあった。(前回書いたように秋山庄太郎が晩年熱中した花の写真を詳しく見たいと思っていることもあり)受付の人と歓談したとき、「秋山庄太郎的な写真がありますね」といったら、どうもその流れを汲む方がリーダーであるようだった。それとは別に、二つの発言が気になった。「デジタルカメラ写真もフィルムと同じように、カメラで撮影したそのままでパソコンでレタッチはしないでプリントする」と誇らしげな発言と、「デジタルはフィルムのように正確に色がでない」という発言。???と思った。以前書いたが、写真はPhoto(光を使って)Graphy(描画する)のが本来の意味で、「写真(真実を写す)」という言葉を使っているのは恐らく世界で日本だけであろう。フィルム・カラー写真ではフィルムカメラから取り出したフィルムを現像所に出し通常は現像所の判断や現像・プリント機械の能力に任せて出来上がってきたプリントをよしとして、これが「おれの写真」として展示していたのが通常のアマチュア写真だった。少し凝って、見本プリントを作ってもらい、それを基に「もう少し明るく」などとある程度の注文はできたが、期待できる出来栄えの違いは微々たるものであった。フィルム白黒写真では、自分で(プロの場合は専属のラボなど)引き伸ばし、現像、プリント仕上げなどの段階で明暗の諧調変化を「焼きこみ」「覆い焼き」するなどの手法でかなりいじって(レタッチして)完成させていたのは事実である。「写真」も芸術である(今や社会的に認知されていると思う)。カラーフィルム写真では撮影者がシャッターを押したときに感動した内容の要素である形、色彩、明暗などをプリントで自分流に独創的に表現するのが非常に限定されていたのが、デジタルカメラの画像では、いまや非常に高度な水準で自分の感動に沿った画像を作り上げる手法が確立し、益々発展しようとしている。日本では、「写真」という言葉にとらわれた考え、また特にカラーフィルム(フィルムカメラが無くなるとは思わないが)ではカメラの中で結果がほぼ決定され、現像・プリントの過程ではやりたくても殆ど手を加えられなかったこともあり、デジタル画像処理するにしても、いじらないことを意地でも主張しているのだろうと思われる。「真実」って何だ!芸術作品って何だ! ある一つの被写体に感動する内容の違いは人間の数だけ存在する。同じ被写体を同じ環境条件で撮影しても、フィルムカメラでは、フィルムメーカー、フィルムのタイプ、使用レンズ特性によって、デジタルカメラでは、カメラメーカーによって違うカメラ内画像処理方法や使用レンズ特性によって、カメラ内で作られた画像段階で既に種々雑多なのである。「色」についても言うまでもない。菊の展示会で大輪の黄色の菊に感動してシャッターを切る。そして隣の白い菊に目を移した瞬間に、「黄色」は既に頭の中にだけ存在する過去の「記憶色」となる。そして、この「黄色」の大輪をいかにその時の感動した印象に近くプリントで再現できるか努力する。そこには既に「こうあって欲しいという黄色(期待色)」が脳を占めている。この「期待色の黄色」はシャッターを押した瞬間感じた色(この色の感じ方自体既に人によって全て違う)に「菊の代表的なキレイな色はこういう黄色だ」という常識論的な色まで加わってしまっている可能性が大きい。又、フィルム画像を現像所でプリントしてもらうと、サイズにもよるだろうが、引き伸ばし、プリントの段階で既に一旦デジタル画像にして処理している可能性も大ありなのである。日本の一流写真家でも殆どデジタル写真を多用している。「フィルムだから。。。。。」という事の意味合いはなくなりつつあるように思える。

2010年7月




 
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