「情報」とは何か? ウィキペディアにある定義、説明は完全度が低いと思われるし、小生がやろうとしても手のつけようがないからやらない。しかし我々は今や「情報化社会」の真っ只中にあるということは誰でも認めることだろう。古来の紙などに記載された情報や口頭伝承などに加え、今や、パソコン、インターネット、ケイタイ電話・・・情報量はとにかく膨大になっている。しかし、その量を計算する方法は無かろう。文字の数、単語の量、画像の大きさ・・・、全てデジタル化してB(バイト)で表わして合計することは理論的には可能かもしれないが、ある一つの同じ「情報」はある瞬間に世界中を移動したり、コピーされたり、保存されたりしている。幸いにして、「情報」そのものに物理的な質量や空間的な広がりがあるわけでもない(それを保存する為の媒体としての紙、・・・メモリーなどなどには質量も寸法もあるわけだが)から地球に影響を与えて地球温暖化みたいに騒がれることは無い。
100、1000、10000、・・・年後、地球上に存在する「情報」はどの位の量になって、どう扱われ、どう処理されているのだろう。人間の脳は、見聞きしたことを全て記憶しないで適当に忘れるようになっているようだが。こういう「情報」のほんの一端について思いをめぐらすことにする。写真関係だけに限って考えてもこの解らないづくしの「情報」の扱いは何となく興味がある。小生はフィルム時代の写真を含めると、恐らく5000枚くらいかそれ以上の画像を持っている可能性がある(数えるのも面倒だし、そうしたって価値もなさそうだし)。そして整理しようとかなり努力し煮詰めている。一部は公の場所で展示し、コピーを売ることもある。何の為に撮りためているのだろうか。写真プリントについても、アルバムに貼って一回だけ見て机にしまって再度見ないであの世に行かれる人も多いことだろう。私は必ず死ぬのである。年なので遺言らしいもの考え始め、そして死後写真をどう扱ってもらうか検討し始めている。あげるとか、寄付するとか、焼却するとか。多くのアマチュア写真家がこういう遺言らしきものを残さないであの世に行っているのではなかろうか。
写真をかなりやっている者だけでなく、ケイタイにだってふんだんに画像を保存している人もいるであろう。太古の時代から人間は食料を保存してきたのだろうし、人間には保存の本能があると思う。余計なことを考えないで写真をとにかく保存している人が多く、保存することそのものを楽しんでいる人も多い可能性もある。世界の情報の量は限りなく膨張している。でも幸いなことに「情報」そのもは(その扱い方は別として)世界の公害とはなっていないと思う。だから写真を撮り続け(理由も無く)保存しても責められることはない。

2010年12月




 
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