自然を守っている都市型公園としてかなり有名な舞岡公園(約9万坪)の撮影をライフワークにしている小生としては、奥深い大自然とはいえないが、それでも間違いなく自然といえるこの公園の風景や生物などを撮影していることと、自分が3年ほど前にキリスト教に関係するようになったことを関連付けて考えてみたくなった。
 約60年前の中学2年生の時に重症の真珠性中耳炎を患い、当時の技術で約13時間の生死を分けた手術を受けて右耳後部の頭蓋骨をノミで(今ではレーザー光線だろう)除去し同時に鼓膜も喪失し、その後肉体的に(ある程度精神的にも)不安定となり、生きるとは、自分とは、自然とは、神とは・・・などなど自問し、難しい哲学書を読むのでなく、精神治癒的、少し哲学的、少し宗教的な欧米の作者の本を数冊読んだりしてきた。そして、自然の創造主(通常、神という)はどうしても存在すると考えるようになった。公園の撮影を始めたずっと前から、道端に生える小さな雑草を見ても「これは間違いなく人間が造ったものではないと」うなずき、自分に言い聞かせるようになっていた。
 本当にキリスト教信者になったとはいえないが、キリスト教の真髄ともいえる「私は神によって生かされている」ということが頭をよぎる。「自分は神によらずに堂々と自分自身で、この自然界に生きているのではない」「自分も公園で見る自然、即ち、その土地とそこにある生物と同様に神によって造られ生かされている」ということを認識する程度が増しているように思う。舞岡公園に限る必要はないが、自分以外の自然界にあるものを「私は自然界を支配している人間の一人である」という尊大な立場で見るのではなく、対等な立場でカメラの被写体を良く見ることが訴える力のある写真に繋がるように思う。かなり仰々しい結論を書いてしまった。

2011年7月




 
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