小生が登録している、写真関係のインターネットサイトで下記のような記事がありました。


             「見ている事のあいまいさ」
「こんちには みさなん おんげき ですか? わしたは げんき です。
この ぶんょしう は いりぎす の ケブンッリジ だがいく のけゅきんう の けっか にんんげ は もじ を にしんき する とき その さしいょ と さいご のもさじえ あいてっれば じばんゅん は めくちちゃゃ でも ちんゃと よめるという けゅきんう に もづいとて わざと もじの じんばゅん を いかれえて あまりす。」
 どでうす? ちんゃと よゃちめうでしょ? 文字の順番が入れ替わっていても、読めてしまうのです。
 このように、見ているようで見えていない事がたくさんあります。文章ですらこうですから、写真画像での間違いに気づかないことも多いことでしょう。


 以前の「思うこと」で、人間の目は新聞などを読んでいるとき、その瞬間、瞬間ごとには、注視している数文字くらいしか焦点があって認識していなくて、視界に入っていても他の部分はピンボケになっていると申し上げた。ウィキペディアでは、視覚を使い判断する動作を「見る」といい、遠くを眺めるというニュアンスでは「観る」とも書くとある。

 写真撮影で対象のものを見て「素晴らしい」と感動してシャッターを押す、出来上がった画像作品を見て「素晴らしい」と感動する、どちらの場合でも上述の脳の働きや視覚機能の作用は起こっている。もう一つ、映画などに利用されている、ある瞬間に見た画像は次に見る瞬間まで脳に残っているからこそ、連続した運動として見られる「残像」現象ということである。
 そして、以上の三つの現象とも、脳の視覚認識の、ある瞬間間から次の瞬間に移るという時間経過が関与している視覚化作業であると言える。
 何を言いたいかというと、我々は映画などを「動画」といい、これに対して通常のいわゆる写真を「静止画」と呼んでいるが、後者も、実は視覚作業においては「動画」または「動画的といえる」ことなのであろう。我々写真家は動画撮影者からもっと学ぶべき点があるのではないかということである。そして、最近の中、高級デジタル・カメラには動画撮影機能が追加されつつあり、この点で何らかの貢献があるのではと思っている。



2012年2月




 
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