当たり前なタイトルだが、少し真面目に考えたい。以前少々この話題について書いたこともある。先月掲載した舞岡公園のアジサイについていえば、今年は全体的になんとなくダラシナク迫力がかけていることに大いに不満を持ちながら撮影したものであった。そして、仕方ないからできるだけ部分的でもいいから何か感じるものを鵜の目鷹の目で探しながら撮影したものであった。常に心をブランク(無心)の状態に置いておいて、歩いていてハタッと被写体が何かを訴えているのを感じてシャッターを押すのがいわゆるいい写真(カッコよく言えば、芸術性のある写真)をものにする一般的なやり方であろうと思う(記録目的の写真は違うだろうが)。
 ところで、花は美しいのです。そう思いませんか。いやらしい花、憎たらしい花、気持ち悪い花、汚らしい花・・・・って、どういうものなのだろうか。昔(1990年)大阪であった「花の万博」で世界一大きい花が展示されていた。確か直径1メートル強はあったが、ガイドの美人と一緒に撮影したものを今でもアルバムに大事に保存している。その花については、少々恐れというか怖さを感じた。
 花はその美しさに昆虫も寄ってくる。人間と同じく美しいと思うから(「思う」といってよいのかどうか?)であろうし、神様はこれらの類の昆虫と人間が「花は美しい」ととらえるように造ったのに違いない。そうかといって、象、ライオン、ワニ、ムカデ、・・・ なども花に惹かれているのか、どうでもいいということか(生物学的に無関心又は無関係)どうか小生の知識では全く不明である。
 要するに人間はだれでも花を見ると美しいと思うに違いないと推定する。最近のデジカメ進歩は驚くべきものがあり、通常のケイタイやスマートフォンなどのカメラの性能も相当なもので、あまり考えずにシャッターを押すだけで普通の人も花を(普通に)美しく撮影して大いに楽しんでいる。花写真のプロもハイアマチュアも頑張らないといけない。違いを出さなければならない。
 前述した、先月のアジサイの花の写真は、心を無にしておいて感じたらシャッターを押したというより、絵を描く場合のように「こうしてやれ」と自分の意図を前面に出して、全体的にみすぼらしかったアジサイの一応見れる写真を創造したように思う。

2012年7月




 
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