写真の歴史は技術的側面では、ダゲレオタイプ、湿板写真、カラー化、デジタル化・・・など幾多の発明発展の段階を経て現在に至る。
 写真のソフト面(写真文化と言ったらよいか)の歴史を考えるとき「大衆化」という重要な側面が考えられる。大衆化の定義は難しいが、とうの昔に始まり今更論じることもなかろうと言われればそれまでということにもなる。でも、大げさな歴史論ではなく、アマチュアカメラマンの一個人として、現在、重要な写真文化の転換が起こっているのではと思うことがある。
 写真というものはカメラという装置を手に入れて初めて楽しめるものであった。装置という概念をできるだけ忘れさせて普及を狙った「写ルンです」や色々なバカチョンカメラなどもあったし、現在もある。
 でも何か「質が違う大衆化」が進行し始めたのではと思われる。携帯電話内臓カメラは、「わざわざ写す装置を買う」という概念を忘却の彼方に置き去り、しかも、その画質の進歩は目覚ましく、なおさら「写す装置を別に買わなくても」にしている。
 近隣でハイアマとされている小生には、時々、「見てください、いいでしょう」と撮りためた写真をケイタイモニターで見せられる。そして最近は、「この人でもいい写真が撮れるのか!」と感銘するような作品を結構見るのである。構図もなかなかいけてる。写真撮影やカメラの勉強をした形跡はゼロである。
 どうやら、カメラという独立した装置を使わずに、普通のおじさん、おばさん、若者、はては小学生なども、衣服のように身に着けているケイタイカメラで、特別に撮影装置という意識なしで、興味ある被写体に出会うと本能的に撮影する。カメラマンでも「写真は数多く撮りなさい」が結構勉強のポイントとなっている。「かず打てば当たる」ということもあろうが、空気のように存在するケイタイカメラを常時使う癖がつくと、自ずと撮影の勉強となり、その蓄積の結果、写真の感性まで磨かれてくる。
 膨大な数の新しい範疇のアマチュアカメラマンが生まれつつあると言ったら大げさか? そして、写真の面白さに気づいて、別個のカメラという装置を買うようになってくれる、写真展の来訪者が増える、我々の仲間が増える・・・写真文化のすそ野が爆発的に拡大する、と期待する。

2013年6月




 
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