「写真の『真』って何だ?!」がCAPA2010年10月号に掲載されてから、早や5年経とうとしている。小生が年とる一方で、デジタルカメラの画像処理技術は新進気鋭、前途洋々、想像を絶するスピードで進化発展している。普通のアマチュアカメラマンでも画像をレタッチし、芸術的、個性的な作品を益々ものにできる環境が生まれている。
 近隣の自然大公園での年2回の絵画、写真などのミニ作品展示会に参加しているが、しばらくご無沙汰だった知人が持ちこんできたA3版のプリントに感銘した。その中で左下から茎がすぅっと伸びた一輪の野花で背景のボケも素晴らしいのがあったが、左下に写ってしまった、ほんの数センチのほかの野草の葉が邪魔だった。「これがなかったら素晴らしい、レタッチで簡単に消せるね」と言ったら、(指導を受けているようだが)即座に「これを消したら絶対にいけない」と言われているとガンとはねつけられた。
 改めて、「写真」の「真」、「光画」という言葉が頭で踊り始めた。現実は、一介の小生が「光画」を持ち出してもどうということもなく、定義不明確な(と小生は考える)「写真」をこの記事でも使うことと相成る。しかし「真」の意味は形骸化され、「光画」と同じ意味となってゆくのだろう。
 レタッチ厳禁をモットーにしているカメラマン又はグループがいるだろうし、写真作品の表現方法の一つのカテゴリーとして否定するものでもない。しかし、写真画像要素のどれをレタッチしても「写真ではない、作品ではない、芸術作品ではない」と言い張るとしたら、どこかおかしいとも思う。形、色彩、明暗の諧調変化、シャプーネス、ボケ・・・、の内、特にフィルム時代には、やりたくても「形」をいじることはほとんど不可能であった名残ではないか。その他の画像要素はフィルムでもレッタチ的なことをする手段は結構あった。第一、フィルムにはいろいろなブランドがあって、どれかを選んでシャッターを押した瞬間に被写体の「形」以外の画像要素はすでに違っていた(フィルムメーカによる恣意的なレタッチ要素が含まれていた)。「形」についてさえも、広角、魚眼レンズでデフォフォルムすることはいくらでもあった。レタッチのどこがいけないのか?感性を強調したいレタッチも悪いのか、気高いカメラマンからは「悪意の小細工」と責められるのだろうか。ここで注目すべきは、広告宣伝などに使われる写真は「広告写真」とは言わず殆ど「コマーシャルフォト」と呼称している。「フォト」⇒「フォトグラフィー」すなわち「光画」なのである。あらゆる写真画像要素をそれこそ恣意的にいじる典型的な写真カテゴリーであろうから、そう呼ぶようになったのかもしれない。この分野の写真は芸術作品ではないのだろうか。西洋外国語単語の発音を日本語化することがお得意な日本人のこと、「フォト」「フォトグラフィー」を普及させたらどうか。仕上がった画像が人に感動を与えれば芸術作品だろうし、写真にも絵画などと同様に創作過程や方法の違いにより色々な作品カテゴリーが存在する。 最後に、アマチュアカメラマン(この定義が難しくなっている)のカメラ・写真月刊誌などでのフォトコンの審査・講評基準はどうなって行くのだろうと、余計なことも気にかかっている。 
    

2015年6月




 
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