過去2回拙文を取り上げていただいているが、「写真」という言葉に取りつかれている日本人として、カメラという道具についても考えてみる。
 「写真」という言葉は、中国で広義の「見えるものをできるだけ、その通りに描く」という意味で1,000年位前から使われ始めたと言われる。日本では江戸時代前に写真技法が伝来した時には「印影」「直写影」「留影」「撮景」などと呼んだが江戸時代末期ごろに「写真」が大勢となったと言われる。一方海外を見ると、欧米諸国、ロシア、南米、東南アジア、などではPhoto-又はFoto-であり、中国は照片、などすべて、「光の画像」という言葉である。表音文字の韓国語ではサジンだが、日韓関係の事情で日本語の「写真」の発音的な影響なのかもと思う。
 現在我々が常用している「写真」について考えてみる。「真」の学問的定義はさておいて、小生流に定義をするならば、「目の前にある形、明暗、色彩などの視覚的、光学的組合せのそのまま」、「写す」は、「写真機(カメラ)を使って、そのままをそのとおりに再現する」となる。なら、「カメラはコピー機だ」と言ったら、腹に据えかねる。
 でも、当たり前に普及している「コピー機」とどう違うのか。例えばCAPAのページを平らに置いてカメラで撮影して使ったりする。これ、カメラはコピー機である。カメラの源流であるカメラオブスキュラもコピー装置であった。コピー機は、話題の3D(三次元)プリンタはさておいて、二次元の平らな書面を「そのとうりに」二次元に再現する。カメラは更に三次元のものも「そのとうりに」二次元に再現することができる。これは単純幼稚な比較論である。

「光画(光を使って再現する)」の世界では、カメラは絵画での筆や絵の具などと同じ「道具」の意味が前面に出て、「真を視覚的光学的にその通りに写す」という意味合いは軽くなり、もっと自由奔放な表現手段なのだとなる。撮影した画像を芸術作品とみなすトレンドは、日本は欧米先進国に比べると遅れ、その展示会やギャラリーは、今でこそ増えたものの、一昔前までは、少なかったと言われている。
   
ところが、その日本が世界最大のカメラ生産国、先進開発国として君臨している。精密、微細ものづくりの天性もあろうが、「写真」という観念に知らずに染まっている日本人は、先ず視覚的、光学的に正確に写さなければならないという強烈な使命感をもってカメラを育ててきた。

それだけでは収まらない。融通性が遥かに高いデジタ技術の進歩により、カメラには、もっと高尚な使命があり、感性をも「そのとうりに」写し出すことまで手伝わさせようと、カメラを生き物のように仕立てようとしているようにも見える。際限なく進化するデジタルカメラは人に観せられる画像作りを誰でもできるようにする目的はほぼ達成したと言えるのではないだろうか。そして更に、芸術作品レベルの撮影作品の質を高度化し内容を多様化することに益々拍車をかけている。

「写真」でよかったのか、「光画」の方が良いのか、何かもやもやしている。

2016年2月




 
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