小生はどうも「写真」という日本語に取りつかれている。屁理屈を言うと、「本当の写真」とは、撮影する瞬間に撮影者の感性や思考に全く影響されないで只々そのままをコピーすることであり、その道具としてカメラがある。構図問題をさておいては、今風に言うと、一番近いのがRAW画像でないだろうか。カメラ内創出のJPEG画像は、すでにカメラメーカーの考えやポリシーが反映されているので「写真」ではない。
 内心、「俺は写真をやっているのではない」「単純な視覚的客観的なコピーをしているのではない」と思ったりする。だが、どうやら日本語の「写真」は広義に変化し、視覚的、光学的コピーであると同時に、主観的なコピーという意味も含んでいるようである。
 モノクロ(一般に白黒)とカラーとどちらが「写真」だろうか。
 現在のカメラの源流であるカメラオブスクラ(暗い部屋、箱の意味)装置はピンホールカメラと同じで小さな穴から入る光が反対側の壁に画像を映し出すもので、その画像はカラーではあった。この画像をなぞって模写し白黒や色付けした画像を作った。この過程ですでに模写者の感性や思考が影響している。
 カメラ写真技術は、ガラス面に塗布された化学物質が、光の当たった面は黒く残り(影)、光の当たらなかった面は白く(透明)なることを利用し始まった。何とかして本来カラーである被写体に近づけようとモノクロ画像に手作業で色彩を施したりした。
 その後、カラーフィルムが発達し白黒写真はあまり見なくなった。しかし白黒画像の持つ独特の表現はカラーの世界とは違った印象を与え、写真芸術として存続し、最近のデジカメでは「モノクロ撮影モード」があるものもあり、ライカのモノクロ専用の高級デジカメさえある。SNSにモノクロでアップすることなどトイカメラレベルのものでも見直されている点もある。
 被写体自身は全てカラーである。ただ写真技術発展の前段階では白黒写真しか作れなかった。白黒は、皮肉を言えば、カラーの被写体を白黒化するのだから「写真」とはいえなかったのだが、その技術が入ってきた時に「写真」と訳した(小生の知っている限り日本だけである)。Photo―,Foto−、中国語(照片)、すべて「光画」の意味合いである。韓国だけは日本との歴史的な事情で「写真」のニュアンスがありそうである。
 カラーフィルムの普及まで白黒の時代が結構長く続いた。そしてカラー写真の誕生で初めて「写真」となった。小生はカラー派であるが、例外的用途のために、レタッチでモノクロにすることはあり、出来栄えにハッと感銘を受けることがあるにはある。
 何か言葉遊びにおぼれているようだが、小生は今以上に白黒に熱中しないように思えるし、世の中一般でも、例えばフォトコンの応募作品はカラーが大勢である。やはりカラーこそが「写真」だと大言壮語したら叱られそうではあるが。

2016年6月




 
Copyright©2007 Takeshi Nakajima